父を奪ったのは、放射能だと思う

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父は、私が5歳の時に他界した。胃がんだった。

 

広島に妻を残したまま出かけていた父は、原爆投下で動かなくなった鉄道をあきらめ、徒歩で必死に広島にむかった。だが、妻はすでに死んでいた。県庁勤務の医師であった父はそのまま救護に当たったらしい。その後、母と再婚し私が生まれた。父が亡くなったのは1958(昭和33)年のことで、原爆投下から13年後になる。

 

原爆放射線医科学研究所は、被爆者と認定された244,516人を調査している。その最初の資料は昭和40年11月1日(1965年)では、すでに141,451人が亡くなっている。そのうち2km以内直爆されて亡くなった方が52,883人、さらに3日以内に入市して死亡した方は37,545人、その他の被爆の死者は51,023人。いわゆる二次被ばくの死者は88,568人も調査前に亡くなっている。

 

悪性新生物(がん)での死者を統計的に最初に調べたのは昭和43年(1968年)からで、その年の全死亡者数は2,187人うちがんは521人だった。まだがんが死亡率として低かった時代のことだ。そして、先程の最初数141,451人の中にどれだけがんや白血病などの死者が含まれているかなど分からない。しかも、こうした数字は被爆者手帳を持っている方だけの統計に過ぎな。だから、父はこの中にいない。

 

福島の原発から放出された、今でも放出されている放射能について、「危険かどうか分からない、放射能の影響は慎重に考えるべきで、にただちに人体に影響はない」などと簡単に言ってほしくない。すべての医師や研究者は人間として、臆病になるべきだ。今を生きる人々の体を、そして子どもたちの行く末を憂うべきだ。今なら何かできる、今なら。何もなかったように安穏として、愚行を繰り返してはならない。

 

私から父を奪ったのは放射能だと思う。医者だった父は、がんになったあと「もう少ししたら、アメリカからコバルトでがんを治療する方法がやってくる、それが来れば治るかもしれない」と母に言っていたそうだ。放射能で床に伏した父が、放射線の治療を待ち望んでいたということが、

 

今思い出しても、胸がいたむ

 

 

13025号

 

 

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< 解説 >

 原爆投下の苦悩を今でも伝える、ヒロシマ平和メディアセンターのWeb情報

被ばくから半世紀を超えて、広島原爆投下の記憶も被害を受けた日本からも消えて行きつつあります。その中で、広島という都市に本社のある中国新聞はその記憶や原爆のことなどの記録を残す仕事をひとつの使命として続けています。

  

同社には、『ヒロシマ平和メディアセンター』というものがあり、原爆に関連したものが、Webでも過去の記事などにさかのぼって読むことができます。ぜひ、この機会に一度ここから訪れてみてください。

  

写真は、『三浦功さん―ぺしゃんこの街に衝撃』2013年4月8日朝刊掲載のもので、広島平和メディアセンターで見ることができます。『入市被爆。弟は15年後に死亡。親戚も次々と』と題されたWeb記事は、今回のKAZE記事を補足する内容となっています。

  

三浦功さん―ぺしゃんこの街に衝撃

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20130408133354291_ja

  

中国新聞 ヒロシマ平和メディアセンター

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/index.php

 

 

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原爆後の死者及び悪性新生物(がん)での死者のデータは以下、原爆被爆者データベースの数表および統計資料より抽出しました。

http://www3.rbm.hiroshima-u.ac.jp/project_abs/report?la=ja

 

 

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